完売した歴史創作本『酉の年に』から再録。
昭和20年7月24日、豊後水道上空でともに未帰還となった鴛淵大尉と初島上飛曹の話。
史実における簡単な概要と人物紹介をPrivatterに用意しています。
飛行場の端に白い丁香花(ハシドイ)が咲いていた。あれは夏の花だろうに、と言ったのは要務士の中島少尉候補生だった。五月に花を咲かせて、気が早い。梅雨に打たれるのも待てないで散ってしまいそうだ。 細やかなことに気付くものだと初島は感心した。自分は花を見て季節を語る品性など持ち合わせない。はしどい、という花も知らなかった。象牙のように温もりのある白さの花だった。優しげな色をしているのにどこか情欲的で、なまめかしい印象のある花だと思った。
かつて、無力感に抵抗することが人生の目的だった。蓋の閉められた風呂桶の中で溺れさせられるような暮らしから身を捩って這い出すために、初島は軍人になった。自由に空を飛ぶ夢を何度見たことだろう。軒に巣をかけたつばめが育ち盛りの子供たちに食事を運んでやる様を見上げれば、今度生まれるならきっとつばめが良いと願った。 献身と引き換えに、運命は初島に鉄の翼を与え、また生まれ持った非凡な才覚について教えた。抜群の成績で飛行練習生教程を修めた。こと射撃の技量については皆が舌を巻いた。 つばめになれないことは分かっていた。母鳥の赤い喉を恋しく見上げていた頃よりもそれはずっと明白だった。どんなに巧く空を飛ぶことができても、初島は伸びやかな小鳥とは違う、何か別の生き物だった。 考え悩む暇はなかった。もしその時間があったなら、もっと早くに死ぬことになっていただろうとさえ思う。ただ名前のないまま死ぬ嬰児のように心もとなかった。多くの嬰児たちに美しい名前が与えられ、初島もそれを押し戴いた。その名を刻んだ墓碑に相応しく死ぬために努めた。相応しく生きるための名前だけがなかった。 鳥の形をした名前のひとが、あるとき初島を見出した。きれいな名前もあったものだとつまらない感慨にふけったことを思い出す。おしどりという鳥がそんなふうに二つの文字でそれぞれおしどりと読み、二つ重ねてもおしどりのままなのだと、初めて知った。惚れ惚れするようなひとだった。彼が初島に、生きろ、と言った。彼のために生きるよう、傍らを指し示した。 初島はときどき、彼が死ねと言ってくれたなら、と思う。殉じることと添い遂げることは随分違う、と考える。隣の隊の来本飛曹長が、彼の隊長からいっしょに死んで欲しいと請われたときのことを話してくれた。初島は四月の半ばの作戦任務中に撃墜されて不時着し、半月ほど本隊を離れていたが、その半月のうちに来本の隊長は戦死していた。初島も死んだと思われていたのだろう、借り物の飛行機から青々とした一面の芝生が見慣れない飛行場に降り立つと、ちょっとしたどよめきが起こった。 初島の帰りを走って出迎える一人の士官がいた。見れば、敬愛する鴛淵隊長そのひとだった。彼を駆け足にさせたと思うと胸が詰まった。敬礼に次いで帰還を報告しながら、初島は不意に自分が泣き出すのではないかと訝った。幸いにして飲み込み、返礼を見守ったが、感涙はしばらくのあいだ初島の喉を焼き続けた。喜びの涙にしては苦く、喉の奥を切るような熱さがあった。 来本が彼の隊長の死と思い出について話してくれたとき、初島はさすがにしみじみと感じ入ったあとで、いっしょに死んでくれ、と言う自分の隊長の顔を想像しようとした。期せずまた涙が滲んだ。涙の甘さが後ろめたく、しこたまに飲まされた生還祝いの酒も甲斐なくして、その晩はなかなか眠れなかった。
飛行場の端に咲いていた花を思い出したのは、中島が小さなお守りを取り出して見せたからだった。札を包んだ和紙に墨書きされた熊野神社という文字の一部が水に濡れたかして滲み、そこにしおれた花冠がひとつ、名残惜しげに貼り付いていた。中島の指差した高木の梢に見上げた花とは色味が違った。象牙のように温かいと思った白ではなくて、青ざめた薄紫色の花だった。 大村の基地は広い芝生の飛行場が目に瑞々しく、前線基地としていかにも慌ただしく手狭でもあった鹿屋に比べると好ましく感じられた。十日ほど遅れて到着することになった初島は、暇を作って基地を見て回り、指揮所や自隊の列線の位置、搭乗員宿舎の場所といったことを確かめた。あちらこちらに前日の空襲の被害が残っていた。滑走路の復旧は早く、瓦礫も撤去されていたが、廃棄品の積み上げられた一角で一面に血の付いた机を見た。うたた寝から無理に引き戻された午後の空気のようにあいまいな胸騒ぎがした。 中島が言うには、そのお守りは本来の持ち主の手を離れてから彼で三人目、どうにもみな持て余して別の人間に託そうとするらしい。 「悪いまじないでもかけられている、ってことですか」 いささか身を遠ざけたい気分で尋ねると、中島はちょっと目を瞠ってから、諌めるのか弁解するのかどちらともつかない顔で答えた。 「まさか。おれはむしろ逆だと思っているよ。だからなんだか身の丈に合わないものを持っている気がして、ひとに託したくなるんじゃないかな」 胡座をかいた同士で膝を擦るような二階の四畳間は防虫剤の匂いがして薄暗かった。中島は腕を伸ばして窓の障子を引いた。乏しい月明かりが遮られると、部屋は手元を確かに見るのも困難なほど暗くなった。初島はなぜ彼が障子を引いたのか考え、あまり意味のある理由に考え当たらないまま、彼が再び話し始めるのを辛抱強く待った。 「だってこれを手放すまで、林隊長はちゃんと守られていたんだからね」 かつていつか、いっしょに死んでくれ、と来本に言った男の名だった。胸につかえるものを感じて目を細めた。中島にそうと気取られないことを祈った。 「爆撃でやられた隊長機をあとでばらしたときに、工作科の誰かが見つけたんだそうだ。運悪くお返しし損ねたんじゃないだろうか。なにせひどく慌ただしくしていたから。そうだ、あんたはいなかったんだな。ひどい一週間だった。あんたが戻って来てみんな本当に喜んでいると思う。なくしたと思ったものが戻って来るなんて、近頃はもうどうしようもなく珍しいことなんだ」 中島の声音は見咎められたくないものをさりげなく背中へ隠すといった色味をしていた。同じように初島が見咎められたくないものを持て余しているとは気付かないようだった。あるいは、隠そうとしているものの性質があまりに異なるので、初島がそれを隠したがっていることに気付かないのかも知れなかった。 「正直、あんたは誠実にもほどがある。世の中の甲斐性なし全員に切って分けて配ってもまだ余る気がするよ」 中島が何について言おうとしているのか、初島は理解して小さく笑った。初島が屋久島沖の小さな火山島に不時着した前の晩、中島は初島に、任務においては必ずや鴛淵隊長を守るよう約束させた。必ず隊長を生きて帰すように、そのために身を挺するように。翌日の出撃から初島が戻らなかったので、彼は少し罪深い心地を味わったのだ。 「夜になってもあんたが戻らなくてつらかったが、誇らしかった。隊長にはきっとあんたのようなひとがいい」 中島はそう言うと、初島の目を見て微笑んだ。思いがけない言葉に初島は息を呑んだ。こみ上げるものをひとつ喘いで逃した。感涙とは別の何かだった。熱くも冷たくもなかったし、甘さも苦さも感じなかった。そうやって初島を責め苛むものではなかった。だからこそどうやったら御せるものか分からなかった。 言葉を失っている初島に、中島は手にしていた神社の護符を差し出した。 「これをあんたから隊長に渡してもらえないか」 要務士として常日頃から緊密に隊長と接している中島がなぜ自分を介そうとするのか、初島は尋ねなかった。わかりました、とだけ言って両手で護符を受け取った。両手で受けるにはあまりに小さくて軽いものだったが、そうした。 「おれは、あの人にこういうものが必要だと思いたくないんだな」 ぽつりとこぼされた中島の台詞に顔を上げた。彼の表情を窺うにはあまりに部屋が暗く、互いにとって幸いだったろうと初島は思った。 「心配はしていないよ。あんたがついてるんだから。でも、どうしてか神頼みをしたくて仕方ないときがあるんだ」 「おれもそうです」 護符を手のひらに包んで握った。手の中にすっぽりと隠してしまうと、護符がまだ本当にそこにあるのかどうか、分からなくなった。 「この半月はずっとそうでした。早く戻りたくてたまらなかった」 手のひらをゆっくりと開いてみた。護符はまだそこにあったが、小さな薄紫色の花は見えなくなっていた。
どうやって死のうか、ということについて、初島は誰とも口に出して話したことがない。口端にのぼらせるまでもないからだ。みな遅かれ早かれ死ぬ。 自分たちが世間の人よりも殊更に早く死ぬであろうことについて、戦闘機乗りたちは隠し立てしなかった。ときにはあからさまに生きていることを厭わしく言う者もあった。この時勢にフィリピンから内地へ戻された、運が悪い、とこぼす戦友の暗い声を聞いた。一方で、お互いまだ生きている、と見知った顔を相手に笑みを浮かべて交わすのも常だった。どうやって死のうかと考え込むのは、余分な時間を持てる人間に許されたある種の道楽なのかも知れない。明日生きているかもわからない世界で、死に方をあれこれ選んでいられようか。死ぬときは死ぬ。それで納得できた。 どうやって生きようか、と考え込むことの方がよほど初島を悩ませた。今日見る朝焼けが人生最後の朝焼けだとして、それをどんな気持ちで見ていれば良いのか分からなかった。けれど四月十六日の朝、初島が隊長の列機として飛び立ち、撃ち落とされて海を漂った日の朝、飛行場に整列して朝焼けを見たとき、出撃を前にした興奮や集中とは別の何かが初島の内側を優しくなだめた。満ち足りた気分だった。どんなこともできるし、どんなこともするだろうと思えた。 朝焼けは美しかった。号令があって自機へと走る直前、その人は初島を見た。初島に生きろと言った人の目に射抜かれて、初島はきっと今日死のうと思った。 死は初島を欺いて通り過ぎた。戦友たちは騙されたことを喜んだ。一度は失ったものが戻る幸いを慈しんで初島の帰還を祝った。隊長が戻ってきたお前に駆け寄ったとき、と感極まった声で誰かが言った。おれは涙が出そうだった。頷いて同意した。その通りだった。涙が出そうだった。泣きだしてしまいたかった。こんなはずではなかった、次は決して失敗しないと、許しを請いたかった。
林大尉の死から二週間以上経っても、彼の隊を率いる指揮官の椅子は未だ空いたままになっていた。空席の下の隊員たちが苛立っているのは初島にも感じ取られた。撃墜した敵爆撃機から飛び出した落下傘を執拗に狙ったあまり、誤って翼に引っ掛けて機体を破損し、飛行長に大目玉を食らった者もいた。 たとえどれほど華やかな戦果を挙げたとしても、彼らの溜飲が下がることなどありえないと思う。もしも初島が自分の隊長をみすみす失う日を生きて迎えることがあれば、そのあとに世界の向こう側半分をすべて焼いたところで、何の意味も感じられないだろう。 中島から、林大尉を失った日の鴛淵隊長の落胆ぶりを聞いていた。彼のような人間でも、いまさら世界の半分を焼け野原にしたところで何も感じない、と思うことはあるだろうか。いつか取り返しのつかない過ちとして彼を失った日の夕暮れにまだ自分が生きていたとき、どう振る舞うことが正しいのか、初島の中には答えがない。答えを見つけたいとは思わない。だが初島の隊長は答えを知っている。いまの彼の振る舞いひとつひとつが彼の答えで、唯一の正答だ。初島の理解できない、想像も及ばない物事について、彼はいつも熟知している。だから初島にはできないことができる。初島に、生きろと言うことができる。
初島は飛行訓練を終えたばかりの搭乗員待機所で休憩の準備をしていた。烹炊所からもらってきた大きな薬缶を両手で傾けて、人数分の白い琺瑯の湯呑み茶碗に注いでゆく。汗ばむような陽気の昼下がりだった。食器から上がる湯気が香ばしく鼻腔を湿らせるのも少し息苦しかった。みな初島がいつもごく無口で、普段からどこか考え込むような様子があるのを分かっていたから、注いで回った茶に自分では一度も手をつけないままでいても咎め立てたりはしなかった。初島はそうやって周りがざわざわと朗らかにしているところで黙って立ち回るのが好きだったし、忙しない下働きに追われる宴会の手伝いの方が、自分を真ん中に据えて祝われるような酒席よりも居心地が良かった。空になった湯呑みがテーブルのあちこちに置かれてゆくのをひとつずつ集めているうちに、けれどもその日はなぜか、寂寥感に背中を撫で回されるような気分があった。顔を上げてみると、隊の仲間たちの背中は待機所の窓の向こうへすでに遠く、見送るのもつらい心持ちがした。 「一杯もらえるかな」 声の主に気づいて、初島はほとんど飛び上がりそうになった。あわててまだ使われていない湯呑みを探し出し、離れたところに置きっぱなしにしていた薬缶を引き寄せて茶を注いだ。自分がひどく赤面しているのは知っていた。火照った頬を一瞥した視線がうまいこと外されて、初島に居住まいを正す余裕を与えてくれるのも分かった。両手を添えて茶を勧めた。湯呑みを拾い上げようとする指先に小さなささくれを見た。爪の片側の皮膚のかすかな毛羽立ちだった。とんでもない覗き見を働いた気がして、初島は身をこわばらせた。初島のすみませんと詫びた声と、鴛淵のありがとうと礼を述べた声が、ちょうど重なり合った。身動きが取れない心地だった。 鴛淵は何も言わなかった。間を持たせるような笑いもなかった。ただ初島の態度や言動が決して不穏当なものではないと示すのに、沈黙を用いた。初島から見て、この隊長はつねにとんでもなく我慢強かったが、今日においてもその忍耐は事を成すようだった。彼がなにごとか言うのを恐れて縮み上がる必要はないのだと初島に理解できるまで、鴛淵は寛容に待ち、おかげで初島は中島から預かったままにしていたものの存在について思い出した。 機械油の匂いが染み付いた飛行服の内側から護符を引っ張り出した。そうして入れておいたせいで護符まで油臭くしてしまったようで消沈した。茶の用意をするために手を洗ってはいたものの、この稼業にあって油の黒い染みは指先からいっときも離れることがなく、そういう手で取り扱うには、中島が言ったように、この預かりものはどうにも初島の身に余る感じがした。 「あなたに渡したいというひとから預かりました」 そんな言い草を鴛淵はいくらでも聞いたことがあるのだろう、と唐突に初島は思い至った。贈り物にしろ付け文にしろ、有り余る繰り返しの中にこのお守りも埋もれることだろう。ほかの誰のためでもなく、それに抗いたいと思った。無数の愛の白状の中にあって、何の面白みも新鮮さもない己のそれが彼の記憶にとどまるよう、もがきたかった。 「どうか持っていてやってください。ご利益がありますから。確かにあったんです。そう聞きました」 鴛淵の手が湯呑みを卓に置き、伸ばした両の指先で丁寧に護符を受け取った。その仕草に酔った。美しい所作だった。 「みなのように神頼みはしません。代わりに、みなのためにあなたを守ります。必ずお守りします」 胸に焼けるような痛みを覚えた。誓いは本心からのものだった。鴛淵が彼の背中を守る列機に初島を選んだ日から、変わらない誓いだった。言葉にしたのも初めてではなかった。誰を目の前にして口にするにも恥じるところは何もなかった。それなのに、初島はいま、自分が嘘をついている気がしてならなかった。偽りを言って、よりにもよって鴛淵を騙しているように思えた。 鴛淵の目を見詰めた。彼の目が過ちを正してくれるものと信じた。誰もがその魅力を語ってやまない、澄んだ朝露のような瞳は、熱烈な献身の表明を聞いても穏やかなままだった。 常と変わらない穏やかさの中に、ふとなぜか馴染みのない色を見て、初島は戸惑った。飛行場の端に咲いていた丁香花(ハシドイ)の白さを思い出した。あの花の温かな白が梅雨冷えに命を奪われるさまが瞼に浮かんだ。鴛淵の目の中にあるのは、そういう愛惜なのかも知れなかった。だとして、初島には彼が何を愛惜するのか分からなかった。ただ、それは正しいことなのだろうと思った。誰もが身の丈に合わないと持て余した挙句に託された護符を彼は必ずや正しく扱うだろう。あるべきところへ、あるべきかたちで、収まるように取り計らうだろう。同じように、彼の愛惜はきっと正しい。 鴛淵がいまこの瞬間に何を愛惜するのか、いま何を失うために悲しむのか、拙く考えをめぐらせた。あなたを必ず守る、という誓いを唇の内側で繰り返した。そして焼けつくような喉に、でも、と続くものがつかえていると知った。 赤裸々な言葉だった。偽らざる思いの丈としても、あまりに明け透けでふしだらだと感じた。こんなものを吐露できるときがあるとしたらいましかない。いま言わなければ死ぬまで口にしなくて済む。言わずに仕舞えるならそうすべきだと思った。噛み締められるものすべてに縋って言葉を押し留めようと試みた。 けれども鴛淵はことさら大切なものを扱うような口調で初島の名前を呼んだ。感嘆ともため息ともつかないそれは、容易に初島の最後の堤を切り刻んだ。 「だけど、おれはあなたのために死にたい」 流れ出てしまった言葉が目に見えるものとして、自分のからだや、目の前の景色を黒々と汚すのを待った。鴛淵の瞳に浮かぶ色が愛惜ではないものに変わるのを待った。待ちながら、しかと受け入れようと努力した。とても難しかった。身を千切られるよう、とはこのことに違いなかった。からだが震えた。 初島、と彼はもう一度静かに口ずさんだ。たしなめるでもなく、なげくでもなく、傷つければ色の染みる花に爪を立てるようだった。 「お前が帰ってきて、みなあんなに喜んだのに」 言葉は切れた堤から溢れてまだ余計にこぼれ落ちた。そうです、と初島はつぶやいた。とてもつらかった、と続け、それでやっと終いにした。 やがて鴛淵は護符を飛行服の内へ仕舞った。初島が数日のあいだそれを持て余していたのと同じところへ仕舞い、さりげなく踵を返した。 「おいで。少し歩こう」
五月の大村は美しかった。海を臨む飛行場の開けた空にとびが舞っていた。こんなに騒がしい場所なのに鳥たちが逃げ去ってしまわないのは不思議だった。懐かしい家の軒先にもまた今頃つばめが巣をかけているだろうか。海風に向かって歩くあいだ、虫を追う二羽のつばめが低くなめらかに何度も旋って飛ぶのを見た。それで初島は満足した。 きれいに植え付けられた芝生の途切れる少し手前で鴛淵は足を止めた。静かな波の打ち寄せる遠浅の湾の向こうに、緑が柔らかな稜線を描いている。傾き始めた午後の太陽が海へとまっすぐに差し込んで、波の白さが目に痛いほどだった。 「初島、いくつになる」 「数えの二十二です」 答えてからようやく、自分が五月の生まれだったことを思い出した。小さい頃はよく本家の弟や筈谷のいとこたちを呼んで祝ってもらった。洋皿に盛られたちらし寿司の鮮やかな色合いの記憶が、惹き起こされた過去の感情と混じり合って脳裏に明るくまたたき、すぐに消えた。 「早かったと思うか」 早死にだと思うか、という問いに聞こえた。初島の当惑を理解している様子で、鴛淵は答えを急かさなかった。頬をなぶる風に少しうつむきながら、まるで別の考え事でもしているようだった。 「いいえ。早く過ぎたと思えるほど真っ当にはなれませんでした」 「そうか」 短い相槌を打ったあと、ようやく鴛淵が振り向いた。瞳の中には愛惜が変わらず残っていた。季節外れに咲いて枯れる花を惜しむ色だった。 「さっきは、言いたくないことを言わせたな。すまなかった」 自分の喉が小さな生き物を絞め殺すような音を立てるのを聞いた。どのように反駁したらいいのか分からなかった。すべてにひとつずつ違うと抗いたかった。一方で、ならばどうであれば相違ないのか、自分で自分の肚が見えなかった。 もしも、と続けようとしたところで鴛淵はためらった。彼が言い淀むところに出くわすのは初めてだった。もしも、という言葉にも馴染みが薄かった。もし自分があのとき出撃していたなら。もしあいつが今日ここにいてくれたなら。もし明日、お前が生きていたなら。 「もしお前が許すなら、聞かなかったことにせずとも良いだろうか」 どんなつもりで鴛淵がそう言うのか、知っているという気がした。ひとの気持ちというのはときに太陽の熱のようにひりひりと肌を焼いて伝わる。火傷のように痛みを伴ってそれと教える。侮った考えだという思いが反対側から初島を押しのけようとした。敬い、尊び、すべてを捧げようとしている相手について、はなはだ侮った考えだ。でもその相手から求めてやまなかったものが与えられるかもしれないとき、どうやって拒んだらいいのだろう。 「お前の秘密を聞いたのだと思った。秘密を明かしてくれたのだと」 秘密、という言葉が心臓を貫いた。正しくそうだった。押し殺そうとしてかなわず、臓腑の裏で悲鳴を上げ続けていた秘密だった。くびり殺してやりたかった。どうしてもできなかった。初島の献身の半分はその秘密でできていたから。 ぼろぼろと涙が流れるのを初島は不思議に思った。今となってようやく心の内からそうして出てくるものがあるとは知らず、手で押し隠すことも考えつかなかった。うつむいて嗚咽すると、鴛淵の両手が肩をさすった。触れられた部分から涙といっしょにからだが溶けてなくなってしまいそうだった。 「早死にだなんて思いません」 泣きわめくような声になっていませんように、と祈った。 「毎日があっという間だと思うのは本当です。でも、全部、永遠みたいだから」 切れ切れに喘いだ。真実が喉笛を裂くようだった。 「終わらないみたいな気がするんです。今だってそうです。それが嬉しい。早くなんかありません」 毎日があっという間で、同時に一瞬が永遠に続く。不時着して隊を離れていた半月はそうではなかった。長ったらしく、もどかしく、何の意味もない日々だった。神頼みなぞ御免だった。初島にはすべきことがあり、できる力があった。軽やかな小鳥には決して持てないもの。鉄の翼と鉛の爪。 初島、という呼びかけは相変わらず穏やかだった。彼が初島を呼ぶ声は、そうであってほしいと初島が望むすべてを持っていた。いつもそうだった。出会ってこの方、そうでないときなどなかった。 「聞いてくれるか。誰にも話したことのない秘密がある。どんな友人にも言わなかった。親兄弟にも明かしたことがない。お前は聞いてくれるか。聞いて、おれを知る人間が一人残らずこの世を辞して去る日まで、秘密のままにしておいてくれるか」 初島は頑是なく首を振った。 「そんな日に、おれは生きていたくない」 両肩の内側に柔らかく沈む親指の感触がいじらしかった。その重みだけですべてに報いて余るほどの価値があった。 「そうだった。でも初島、おれはその日にお前がいてくれたらと思うよ。生きて隣にいてくれたら」 彼の顔を見ようと、手のひらで涙をぬぐった。どんな表情で彼が自分にそう語りかけるのか、見ようとした。上げた顔に潮風が吹きつけた。涙が細かく砕けて、視界いっぱいに散った。初夏の透き通った光の中で、真昼に輝く満天の星のようだと思った。
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