完売した歴史創作本『酉の年に』から再録。菅野と林の話。
汁椀を両手で持ち上げる。箸を右手で上から取る。椀を支える左手の人差し指と中指の間に箸の中程を挟む。右手を箸の下に持ち替える。左の指の間から箸をはずす。箸先が少しだけ内側を向いた形を作り、そのまま椀の中へ運ぶ。箸先で椀の具材を押さえて、椀の縁に口をつけ、傾ける。傾けた椀を元の位置まで戻す。箸先を椀の中から引き上げ、揃えてから左手の指の間に差し入れる。右手を上に持ち替える。右手で箸を下ろす。両手で椀を置く。 この動作の間にひとつも音を立てない。別段、静々と食事をしているわけではない。むしろ目立って騒がしい。けらけらと大口を開けて笑い、野卑な冗談を言う。漬物をひとつ口に放り込んでは、椅子の上で落ち着きなく身をよじり、隣席に話しかけながら眉をしかめて見せる。だから誰も彼がそんなふうに食器を扱っていると気づかない。 耳目を集める人間というのは、ひとを楽しませるか、苛立たせるか、その両方か、いずれにせよ周りの空気を引っ掻き回すものだ。彼はまさにその手の人間で、あちこちでひとを楽しませたり、苛立たせたりしている。この食堂に夕食のための箸箱を並べているうちの何人が楽しんでいて、何人が苛立っているのか、そのどちらに自分が分類されたものか、考えようとしてふと重い疲労感に襲われた。 長い一日だった。軍務に就いて四年が経った。前線の航空隊で列機を率いるようになって二年が過ぎていた。二年前の六月のある日、南洋の晴れ渡った空の下で初めて人を殺した。火を吐いて落ちる機体よりも、機銃に吹き飛ばされた真っ白な垂直尾翼が柔らかな白墨を真っ青な紙に試し書きするような煙を引いて回る様が目に焼きついた。 あの日は今日よりずっと短かった。明日の命も知れない日々を来る日も来る日も忙しなく生きているのに、あれから一日は長くなる一方だ。傾く夕日の投げかける影が、日没が近づくほど地平に長く伸びてゆくのと似ている。今日はつねに昨日よりも長く、明日はきっと今日よりも長い。その長さに耐えられなくなる日がいずれ来る。沈みゆく太陽に引き伸ばされ続ける影がしかし、東の地平線に届くことだけは決してないように。 「林さん」 目を上げると、菅野がこちらを見ていた。何か言いたげに、もどかしさを隠せていない子供のような表情だった。色の白い頬に火傷を覆うガーゼがまだ残っていた。あんなに医務室行きを渋っていた割には、毎日素直に医療用のテープを貼り付けた顔を見せて、平気でいる。痣のような黒ずみが痛々しい唇は、林の名を呼んだきり結ばれるでも開かれるでもなく、具体的な表情を作る瞬間の一歩手前で曖昧な曲線を描いて踏みとどまったまま動こうとしない。ひりつくような焦ったさが何について向けられているものなのか訝しい。 そうやって菅野はいつもひとの気持ちを揺さぶる。揺さぶって気を引く。ときにとても無作法なやり方で。 誰もが菅野を忘れがたく思う。好むか厭うかの別はあっても、菅野をいなかったことにしておける者は少ない。そうでありたいと菅野自身が望んでいるように林の目には映った。 忘れ去られたくないと願うのはひとの常だ。いつかこの世を去るとき、軍務にあって世人に比べてそれはよほど手近なところにあるに違いないのだが、せめて親しい者がまだ生きている間くらいは己の人生がなかったことにならないよう、願って世の中と関わり続けようとする。 記憶に残りたいという願いが、菅野は人一倍に強いのかも知れない。林にはそれが時折疎ましい。忘れられても仕方がないと林は思う。忘れる者は忘れるのだし、覚えていてくれるひとが一人でもいるならたった一人でも、構わないと思う。どうやら菅野はそうではないらしい。誰にも忘れられたくないのだ。願い通り、いつか菅野が林を忘れても、林は菅野を忘れないだろう。懐かしむこともやめて忘れるまでの時間がもしも自分たちに残されているならばの話だが。 だから、箸使いの良さを見咎めて苛立つくらいには、こいつが気に入らない、と林は思った。菅野の振る舞いを楽しむのか苛立つのかという線においては、林はいつも苛立つ側にいて、反対側にいたことはなかった。反対の岸で、菅野が箸を動かそうと電柱を動かそうとすべてによしと与えていた男は、きのう死んだ。あの男は、菅野の箸使いがあれほどきれいなものだと気づいていただろうか。 「林さん、漬物食わないんですか」 何をそんなに焦っているのだろうか。菅野の目に浮かんでいるのは、余分の漬物を欲しがる子供のもどかしさではなく、息の仕方を間違えればすべてが狂いだすとでもいうような、緊張か焦燥の類いではなかろうか。 耐え難くなって、林は視線をそらした。返事をする代わりに漬物の鉢をつまんで、菅野の箸先がはしたなく外を向かなくても届くところまで持って行ってやった。ありがとうございます、と礼を言った声の調子が、やはり緊張のあまり上ずっているものに聞こえて、彼の箸使いの良さに気づかないように誰もその声音にも気づかないのかも知れない、と思うと、俄かに憂鬱な心地がした。
もしも寂しさを紛らわせたくているのなら、彼は人選びを間違えている。話し相手としても、空いた面子の埋め合わせとしても、まったく自分が適当とは思われない。菅野が面白おかしく話してみせることは、どれも苦々しく解釈した方が性に合う。菅野が本来その話をしたかったはずの男とは、少なくとも菅野自身を挟んで、ものの見方が正反対だった。 夕食のあと、宿舎の机で仕上げたあれこれを小脇に本部庁舎まで行くだけの、便所に立つ方がまだしも長そうな片道を、菅野は気まぐれを装いながらついて来た。ちょうど外の空気が吸いたかったと言い、こうも暖かいと雨も気にならないと笑った。 実際、気温の高い日だった。日が暮れるとさすがに汗ばむような熱気は去ったが、温められた空気が淀んでうごめくだけの風がときおり吹いて、松の梢を鬱陶しく揺さぶった。灯火管制のためにどの建物も暗く、松葉の若い緑は頼りない月明かりの下でくすんでいた。湿気った毛布のような雲が西から近づいて、数日のうちには雨を降らせると聞いた。春の嵐は唐突で残忍だ。林は満開の桜に雪が降った年を思い出した。下がぬかるんで面倒が増えると思った。 今夜は不在ばかりが目につく。余計な隙間ができて、本来顔を突き合わせないで済む者どうしが、こうして慣れない相手に歩調を合わせるはめになる。 「そうだな、貴様を半長靴の泥落としに係り切りにさせてくれるのなら、雨も悪くはないな」 ときどきまともに口をきいたところでこんな台詞しか返さない相手に、菅野も慣れていないのだと思う。歩幅の違う足取りが乱れて合わない。膨れっ面がやり返す調子も足取りと同じにもたついて遅れる。 「あなたのところの従兵に粗相が多いというのは、誇大な話じゃないかって気がしますね」 「三階で言ってやれ。手ぶらで入れる面には見えんが」 庁舎正面の短い階段を上がる手前で菅野は立ち止まった。林は足を止めなかった。そのまま階段を駆け上がった背中に、媚びるのか甘えるのか決めかねている声が飛んできた。 「お荷物を何枚か貸してくださったら、入れます」 知ったことではない、さっさと自分の仕事を片付けて持って来い、と撥ねつけるつもりで林は振り向いた。振り向くべきではなかった。雨除けの庇の下の暗がりでも林にはそう見て取れた。階段を降りて行って腕を掴んで引っ張り上げるか、脇に挟んだ紙束の中から一枚を引き抜いて取りに来いと言うか、するべきだと思い、次いでためらった。 紙束を押さえる左手の指にじわりと汗が浮いた。幼稚なほどの執着があった。今朝まで、林には気心の知れた古い戦友が何人もいた。どのようにして林が彼らを殺したのか、書き綴った紙だった。それから孤独を欲するような感情がこみ上げた。恥と倦怠の入り混じった感情だった。ひどく醜かった。醜さのあまりに、退けることも無視することもできず、そのまま犯されるようだった。 されるがままにした。積み重なり続けた長い一日の疲れが抵抗を奪った。抗うためには死力を尽くさねばならなかった。今日よりも長い明日が来るのを待つ夜にできることではなかった。 林は小さくかぶりを振って答えた。 「戻って、少し休め」 できるだけ聞き取りやすいようにゆっくりと音節を区切ってそう言った。菅野のためではなく、自分で自分が何を言ったのか、自分の耳で聞いて、はっきりさせておきたかったのだと思った。ひとを押しのけるために、まだ穏便な言葉を使っていられると知っておきたかった。たとえそれが怪我人を押しのけるような行いだとしても、肘で突き飛ばしたのではなく手のひらで遠ざけたのだと思いたかった。 菅野が踵を返して立ち去るまで、林は階段の上で待った。気分が悪かった。良くないことをした、という気持ちがこみ上げた。だが今日これまでのところで一番良くない行為だったかと言えば、そうではなかった。過ちや不誠実が慰めになる日が来るまで生きていたいとは、願ったことなどなかったはずだった。
馴染み深い瀬戸内を離れてから、日々は慌ただしさを増していた。宿舎の部屋番号に慣れる間もなく、四晩を過ごしただけで、隊は桜島の北側へ居を移すこととなった。 もとより身軽な航空兵の端くれの持ち出す荷物は箱が一つ、その中に押し込んで持ち出せないものなど初めから持つべきではないと林は思う。五日目の夜を同じ基地では過ごさないと聞かされたあと、林は私物入れの箱の中身をごっそりと捨てた。丁寧に要不要をより分ける時間もその気もなかった。 列線へ飛行機を拾いに行くがてら、釜焚きの足しにしてくれと烹炊所を手伝いに来ている娘に託した。中には二年間持ち歩いていた手帳や家族からの手紙もあった。娘は変な顔をして林を見ていた。女学生というには幼いが、子供でもないような歳の頃の娘だった。染め抜きの三角巾を結んだ額は汗ばみ、煤で汚れた手で拭ったのか、黒いものが一筋ついていた。 手帳や手紙を捨ててでも荷物の嵩を減らしたかった。減らして空いた隙間へ入れて持ち出したいものがあった。箱に収めて運んでやれるものではないと知っていた。そういうものを持って引きずって歩きたがる気性は命を縮める、と誰かが言った。私物入れの中に忍ばせて連れて行きたいと思ったそれらは、今更どんなに場所を作ってやったところで、とうの昔に林の手指をすり抜けて失われていた。
空振りに終わった午前の哨戒ののち、中身を減らした箱一つとともに降り立った滑走路で、機上から菅野の姿を見た。まばらに芝の貼り付いた飛行場は降着の衝撃があるたび舞い上がる火山灰で視界が悪くなる。灰を噴き上げる山からの距離はそう違いはしないのだが、山の南側では飛行場を守ってくれていた海風が、ここでは逆に灰を運んで積もらせる厄介者になっているようだった。 菅野は降りたばかりの乗機の車輪にチョークを入れていた整備兵と何か言葉を交わしているようだった。整備兵は翼の上を見渡すように頭を巡らせて、ついでなぜか身振りで林の方を指し示した。 菅野がこちらを見ようとするのに気づいて、林は目線を外した。風防のスライドに手を掛けて引き開け、立ち上がって座席の後ろへ放り込んでおいた私物入れの箱を掴んだ。たまらなく軽かった。何一つ持ち出せなかったのだと思い、あるいは引きずる荷物が減ったおかげで命が永らえるのかも知れないと考えると、吐き気がした。
掩体壕へ引かれてゆく機体をあとに、充てがわれた宿舎へ荷物を置きに走り、駐機場手前の指揮所に戻ったのが十四時半だった。俄かに指揮所の天幕の下から走り出る人影がいくつもあり、彼らが良く晴れた四月の空を仰ぐのを見た。 よどんだ雲の隙間にざっくり切り開かれた傷口のような晴天だった。午後の陽光に褪色させられた南の空に彼らが見ているものを探した。太陽の方角をまともに見上げることになり、林は目を眇めた。朝の雲間に見つけることのできなかった重々しい機影が、高度を下げないまま真っ青な傷口の中へいくつも滑り込んでくる。長々と垂れ下げた両翼が真昼の太陽を背に暗い。死んだ海鳥が自分の死に気づかせてもらえないまま飛び続けているような姿だと思った。 気づけば、退避の声がかかっていたらしい。格納庫からも、発電所の裏からも、ひとが駆け出して散ってゆく。叫び声と怒声と、出遅れた警報の唸りと、物が落ちたり倒れたりする騒音と、足音と、音が飽和して何も聞こえなくなる。その中で林は誰かに呼び止められた気がして、振り向いた。 「逃げないんですか」 そう言った菅野の声を耳で確かに聞いたのかどうか林にはよく分からなかった。凄まじい破裂音がして、指揮所の裏手の建物の窓ガラスが吹き飛んだ。肌を切るような爆風が砂塵を舞い上げながら届き、露出していた顔や手の皮膚に痛みが走った。 菅野は表情を変えなかった。まばたきひとつしないまま、逃げないんですか、と繰り返した。 こいつは何をそんなに怖がっているのだろう、と林は思った。 南洋の島にいた頃、空襲で爆弾の破片で足をやられた子供を見たことがあった。破片は小さなもので、太ももの真ん中あたりを貫通して抜けていたが、子供が倒れているそばの木の幹には白い米粒のようなものがびっしりと張り付いていた。目を凝らしてみて、砕かれた大腿骨の破片だと気づいた。子供はしばらく火がついたように泣きわめいていたが、助けを呼ぶ間もなく死んだ。 菅野の顔をまじまじと見つめた。柔らかな肉でできた生身の体を爆撃の下に晒していることなど、菅野は気にかけてはいないようだった。苦痛や死を恐れているのではなかった。まったく別の何かを恐れて、菅野の目は熱に潤んでいた。 「逃げないと、死んじゃうかも知れませんね」 張り上げた声はどこか駄々をこねるようでもあった。危険を知らせて、逃げろと警告する声音ではなかった。 林が答えようとしたとき、菅野は不意に口角を上げて微笑んだ。とても怖がっている、と思った。林が何と答えるのか怖くて、どんな返答があっても堪えられるよう、必死で表情を作っている。笑ってさえいれば気持ちがすっかり折れてしまうことなどない、とでも信じているかのように。 林は歩み寄って菅野の腕を掴んだ。もはや歯の根が合わないほど怯えているのは分かった。掴んだ腕を引いて、指揮所の天幕の下へ連れて行った。椅子ではなくベンチに座るように促し、その隣に林も腰を下ろした。 「怖くないんですか」 断続的な炸裂音と地響きの隙間に、菅野がそう呟くのが聞こえた。林は答えなかった。菅野が望む答えをやれないと分かってしまったから、返事をしなかった。代わりにうなだれた頭をひと撫でして、肩を抱き寄せた。菅野は林の服の裾を掴んでうつむき、胸元に額を押し当てて黙った。まるで子供の仕草だった。 かわいそうに、と林はぼんやり思った。こんなものが欲しかったのか。いや違うと否定する。そうではない。これは、菅野が本当に欲しかったものの代替品でしかない。 菅野はただ、林に怖がっていて欲しかっただけだ。同じように恐れ、寂しく思い、いまだに息をしている厭わしさを愛おしんで欲しかっただけだった。そうでさえあったら林を失わないで済むはずだと信じて、いまこうして身を寄せ合いながら、菅野は絶望している。 「死ぬかも知れないな」 駐機場の向こうの滑走路で爆煙が上がる。地震を思わせる地鳴りと空気の振動にあらゆるものが震えている。景色にもやがかかるほどの砂塵に、菅野が咳をした。背中をさすってやった。思っていたよりよほど小さな背中だと思った。 「二人してこんなところで死んだら、叱られますね」 「気にするな。死ねば殴られても分からん」 菅野が笑ったのか、嗚咽をこらえたのか、よく分からなかった。どちらの方がましなのかも、もう分からない気がした。
待ちわびて三日目に雨が来た。雨を待っていたのは林ではなかったが、いずれにせよこんな雨を待っていたわけではなかっただろう、激しい嵐だった。出撃は二日続けて中止になり、爆撃で空いた滑走路の穴には水が溜まった。飛行機が車輪を取られるのを防ぐために、穴の箇所には地上員の手で目立つ赤い旗が立てられていたが、その旗も折られようかというほどの風雨だった。 飛行場の端では囮機が雨に濡れていた。おとといの空襲で被害を受けた機体も使用可能な部品を取り外されたあとでその列に加えられた。命を偽装された飛行機の列はどことなく不気味で、うつろな中に生ぬるい気配を拭いきれない、人形のようだった。 またも空振りに終わった哨戒出撃に前後して、爆撃機の編隊が繰り返し基地の上空を侵した。状況は逼迫していた。南端にほど近いとはいえ、ここはまぎれもない本土だった。南方から内地に戻されたときとは違う。ここより戻る場所はもう後ろにない。 おとといの空襲は、降着誘導に忙しい駐機場の上で林の隊の列線を直撃した。三人が死んだ。愛着のあった機体のひとつも手放さなければならなかった。あの機体の椅子の裏に、鎌倉の神社の護符を差し込んでおいたはずだった。きっといまも囮機の列のどこか、風防の中で、林と同じようにガラスを叩く雨の音を聞いている。 夕闇が迫っていた。士官室の窓を濡らす雨は強さを増していた。吹きつける風と相まって、細く切った帳簿の切れ端を格子状に貼ったガラスの向こう側を黒々とした舌が舐め回すようだ。真下だけを照らすように厚手の布の巻かれた明かりばかりがぽつぽつと下がった部屋の中で、誰とも判然としない顔がいくつかウィスキーの角瓶を囲んでいる。その輪に加わりたいとは思えず、もっと言えば、この部屋に居たくもないのだと林は思った。 おもむろに席を立って出て行こうとしたとき、掴みかけた真鍮の把手が勝手にくるりと回った。向こう側から扉を引き開けた顔が、林を見上げて目を丸くした。 「あれ、どこへ行かれるんです」 風呂上がりに顔を拭くのも忘れるほど何を慌てているのだろうか、と思った。風呂上がりなのではなく、雨に濡れたのだと、その顔色を見て気づいた。 「そんな格好で入ってくるな」 菅野を廊下へ押しやって、後手に扉を閉めた。菅野はまた、もどかしさが皮膚の内側を掻き毟るような、緩むとも張り詰めるとも知れない表情で林を見ていた。ガーゼの取れた頬に火傷の引きつりが痛ましかった。表面の質感が変わった肌に雨粒が伝った。火に焼かれることのなかった肌に比べると、なめらかで滑りが良いようだった。 「何をしていた」 「探しものです」 「それは知っている」 菅野は一瞬ぽかんとして、それから破顔した。長いこと引き締められ続けたものが意図せず撓んでこぼれ落ちるようだった。林はようやく自分の思い違いに気づいて、おそらくは思い違いなのだろうと納得して、しかし訂正しなかった。菅野も林に倣った。 「林さん、飯食いましたか」 菅野の声はどことなく上ずったままだった。そうさせているのが緊張ではないと、いまはよく知っている。そんな声で語りかけようとしなくていいと言ってやれないことを切なくも思った。けれども、この賢しくて、ひとの気持ちの機微に鼻が利き、ただ箸使いほどには器用に振る舞えない青年を騙し通すことが林にできるかと言えば、また違う。 嘘をつかないことはきっと甘えなのだと思う。偽ろうと試みないことでどんなに林が心安くなるものか、菅野が知る前に林は死ぬ。 「飯食ったら、少し歩きませんか」 「こんな雨の中に出歩きたいとは思わんが」 「雨が止んだら、いいですか」 林はさすがに面食らって口をつぐんだ。 「話していたいんです」 菅野は自分の言葉に恥じ入ったように目を伏せ、なお抑え難い衝動に喉を絞られる様子で、また口を開いた。 「一生懸命探したけど、見つからなかったから、ほかにどうしたらいいか。分からないから、せめて、話していたいんです」 林は菅野の額を見ていた。日に焼けることも商売のうちといった仕事をしているのに、菅野の額は相変わらず白いままだった。うつむけた額の少し先で、まつげが黒く濡れていた。子供じみた輪郭のまぶたをしていると思った。弟がまだ乳呑み子だった昔、近くで見つめたまぶたの形を思い出した。 話をしよう、と林は言うつもりでいる。雨が降り続く夜のうちだけは菅野と話ができる。雨の止んだ朝に、林はもう菅野と交わす言葉を持たないだろう。厭わしい雨が厭わしい息を永らえさせている。雨の下では時が止まるようだ。将棋倒の駒をいっとき指先で押しとどめるのと似ている。不自然で寄る辺ない。長くは保つまい。 話をしよう。そう口にする前に、林はどこか菅野を好ましく思っている自分に気づく。林が菅野を忘れる日が来ないように、菅野が自分を記憶に留めてはくれないかと望んでいると知る。菅野がどんな風に林を忘れようとも、あるいは少しのあいだ思い出の中に残しておくにしても、確かめるすべはないのだけれども。 林はいま、菅野に顔を上げさせる言葉を探している。穀雨に濡れそぼった菅野の肩に、小さな花がひとつ落ちている。飛行場の端に咲いていた淡い紫色の丁香花(ハシドイ)に似た、いとけない花だった。
ご覧くださりありがとうございました!
2024.10.28. ゆり
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