(この小説は「砂漠のポラリス」から続いています。マーヴェリックがある日、ルースターのもとから忽然と姿を消して戻らなかった世界のお話です)

深い穴ぐらの底から晴れ渡った空を見ている。長い尾を引いて流れていく飛行機雲。芳しい雨の香り。東の風。南東から吹く豊穣の風。風の神々たち。      午前九時の起床。ゆったりとした朝。眠いまばたきを繰り返しているうちに、先ほどまで見ていた夢を忘れていく。夢の代わりに身体の重さを思い出す。ままならない重さ。見知らぬ鈍重さが少しずつ骨と肉に馴染み始める。それには少し時間がかかり──ほんの半刻ほど──その時間を使って、おれは覚悟を決めなくてはならない。目覚めたこの一日をなんとか生き延びる覚悟。  むかし、軽やかだった頃、それはわずかに半年ほど前のことに違いないのだが、あの頃のおれの背中には羽が生えていたんじゃないかと思う。背中どころか、持ち上げる指の一本、まばたきする瞼の一枚にさえ。枕に埋まった頭を持ち上げ切れずに呻くと、頭のどこかから自分の声がする。慌てて起き上がろうとするんじゃないぞ、床に転がり落ちて人を呼ばれる羽目になる。  ゆっくりと息を吐いて、吐いたぶんだけ吸い込む。五回も繰り返せば泥のように鈍った脳みそにも熱が回り始める。そう言い聞かせながら五回の呼吸を待つ。耐え難い長さだ。残りの人生がこの鈍重さとともにあると思うと、何か人間以外のものにすっかり変わってしまいたい気持ちさえ起こる。目が覚めると奇怪な虫に変身していた男のように。 「ジェイク、おはよう。気分は?」  最高が十点で最悪が一点。 「四点。いや三点」 「何だって?」  おれはピントを合わせるのを諦めた目で天井とカーテンの境目あたりを眺めた。どうもここは病院ではないし、こいつは看護師じゃないらしい、と思う。昨日と今日の間に鮮明な夢が挟まっていて、夢の中身はもうすっかり忘れたのに見通しだけが悪い。 「気分は最高が十点、最悪が一点。一点だったのは手術の麻酔から覚めたときで、お前の命を救ったときは十点だった」 「なるほどね」  なるほど、ともう一度繰り返して、ブラッドリーは壁際の小さなデスクから椅子を引き寄せて腰を下ろした。 「おれはじゃあ……七点かな」  そうやって彼は寝覚めの悪くなったおれの頭がいくらかすっきりするのを辛抱強く待つ。もうしばらくすれば寝返りを打てるようになり、さらに少し時間をかければ自分で体を起こせる。どこかのタイミングで彼はコーヒーのための湯を沸かしに行くだろう。何をどうやっているのか分からないが、おれがどうにかダイニングへ這い出て行く頃──朝にしろ、昼下がりにしろ──コーヒーはなぜか淹れたてだ。  彼には人の状態を推し量る才能があるのではないかと思う。才能か、あるいは訓練の成果か。いずれにしろ、虫になった方がマシだと思うようなこの毎朝の倦怠感について彼に詳しい説明をしたことなどないのに、彼は歩幅の見当もつかない小さな子供の隣を寄り添って歩く丁寧さでおれを待つ。待ちながらほんの少し先回りをしてドアを開けておいたり、靴を手前に寄せてくれたりする。 「何時だ?」 「八時三分。今朝は涼しいな。少し走ってきたけど、出かけるなら上着がいるかも」 「十一月だぜ。カリフォルニアにだって秋は来る」 「これを秋って呼ぶんなら、そうだろうな」  療養に適した温暖な気候と仕事への未練がおれをカリフォルニアに引き留めていた。車を飛ばせばノースアイランドの航空基地の正門まで十五分もかからないだろう。それどころか、放射線治療のために通ったがんセンターはミラマー基地の西側のすぐ裏手にあった。  車椅子を積むために買ったシボレーの運転席で定期通院先の病院へ向かうアクセルを踏み込むとき、どこへ向かってハンドルを切るべきなのか理解したくない、と思うことがある。いつかは基地へ向かう州道へ洒落たコンバーチブルを走らせる日が来るかも知れない。その日が来ることを信じないわけではない。信じるのをやめるべきでないこともわかっている。だがその日はいつも、今日ではないのだ。 「窓を閉めて暖房を入れるよ。その方がいい」 「好きにしてくれ」  七点の男はおれの部屋着の一式を置き土産に、椅子を立って寝室を出て行った。おれは自分を急かさないよう努力しながら、柔らかなコットンのシャツに手を伸ばした。  清潔な布地の手触り。  几帳面に畳まれた折り目の丸み。  親指の腹で揃った布端をめくると洗剤の香りがする。  ため息。  三点の気分が四点になり、五点まで持ち直す頃、おれは自分が安らいでいることに気づく。気が安らぐとはどういうことなのか、それでようやく思い出す。人生に安らぎが必要だと思ったことなどなかった、ということもついでに思い出し、にわかに湧いた苛立ちを取っ掛かりにして上半身を引き起こした。めまいと頭痛に一瞬だけきつく目を瞑ったが、不快感はすぐに遠のいた。  こんなものには慣れっこだ。十五年も戦闘機乗りをやれば誰だってそうなる。慣れないのは、これが起こる場所がなぜかベッドの上だったり、散歩に出た公園のベンチだったりすることで、要するにブラッドリーがいつだったか吐露した通り──なぜお前やマーヴェリックのような人間が、買い物帰りの道端やら自分の家の廊下なんかで死神に肩を掴まれるんだ?──何も納得がいっていないのだ。命を賭けた仕事の場ではなくベッドの上や公園のベンチで、死の淵から吹いてくる爽やかな風に耳の後ろをくすぐられるなんて。  フルジップアップの黒いフーディーと明るいグレーのスウェットパンツ。暗い青色のリブソックスは厚手の秋物で、見覚えはある私物だけれども、どこからこれを探し出して来たのだろうと首を捻る。パーカーの上に羽織るためのフランネルのシャツに至っては、広げてみてひっくり返して、このサイズはおれが自分で買う服じゃないぞ、と思う。休暇を病人の家で過ごすために持ち込んだ荷物の中に、余分の上着があったのだろうか? たかだか三日かそこら、体力回復のリハビリがてらの散歩がやっとの男の面倒を看るだけにしては、確かにやたらな大きさのボストンバッグを二つも抱えていたっけ。  息を吐き、吸ってはまた吐いて、右のソックスをくるぶしまで引き上げたところで、おれは小さくかぶりを振った。彼は病人の面倒を看るために来たのではなかった。そういうつもりならお断りだとはっきり言った。  何を気に病んでいるのか知らないが、妙ながらくたを背負いこむのはやめろ。そいつはおれの持ち物じゃないし、お前のでもない、強いて言えばおれの棺桶かも知れないが、それをお前がいま引きずって歩いても面白くもなんともないだろ。  ブラッドリーは珍しく自分から掛けてきた電話の向こうでしばらく黙り込んだあと、意外なほど落ち着いた声音で答えた。お前と過ごしたいんだ。会いたい。会ってまた飲んだり食ったりして、つまんねえホラー映画でも見て、退屈させるかも知れないけど、でもそういうことをしている間、お前と一緒にいたい。  鼻で笑って突っぱねるには率直すぎて、今度はおれが黙り込む番だった。ちょうどその電話をしているとき、おれは使わなくなった車椅子を玄関から家の奥の物置へ引き摺って行こうとしているところだった。すっかり見慣れてしまった黒いアルミのホイールに目を落としたまま彼の声を聞いていると、得体の知れない気分が喉から込み上げてくるようで、慌てて天井を仰いだ。  分かったよ。  ゆっくりとした瞬きを二度繰り返して、分かった、ともう一度言った。  ブラッドリーは休暇の日程を説明し、こちらへ来る日取りと時間を丁寧に確認してから、ゆっくりと電話を切った。おれはまだ天井を見上げていた。廊下の照明の傘に少し埃が溜まっていて、彼が訪ねて来たらあの埃を掃除してくれと頼むくらいは許されるだろう、とぼんやり考えた。  彼にできておれにできなくなったことのうちのどれを白状して、どれを隠したままにすべきか、考えようとしてやめた。そんなもの、たった一つを別にしたら何もかもが些細でちっぽけで、隠すほどの価値はきっとない。    ダイニングへ出て行くと、六人でも食卓を囲めそうな広々としたテーブルの上で、やはり淹れたばかりのコーヒーが湯気を立てていた。ブラッドリーはまだキッチンにいて、慣れた手つきでベーコンか何かをフライパンで炒めているらしかった。 「サニーサイドアップ?」  おれはダイニングテーブルの椅子を引いて腰を下ろしながら、ベーコンじゃなく目玉焼きか、と思い、ついでにベーコンも添えられて出てくる方へ内心で五ドルは賭けた。 「いや、オーバー・ハードで」 「了解。覚えとくよ」  何のために? おれはマグにたっぷりと注がれたコーヒーに口をつけ、間仕切り壁の向こうに見え隠れする彼の背中を眺めた。まあ、明日のためか。  昨日の朝食はバックウィートのパンケーキだった。そんなものの材料を買い込んだ覚えのなかったおれが妙な顔をしているのに気づいたブラッドリーは、大きなボストンバッグのうちの一つには食料品を詰めてきたのだと説明した。キヌアだとか、チアシードだとか、見慣れないドライフルーツや珍妙な名前のナッツまで、小洒落た食材の袋が開いたバッグの口からいくつも顔を覗かせているのを見て、おれは言葉少なに説教をした。お前、スタンダード・セラピーって知ってるか。百回唱えて死ぬまで忘れんな。がんに効くキノコがあるとか言い出しやがったら、絶交だからな。  それで、今朝はシンプルに目玉焼きとベーコンときつね色に焼き上げたライ麦パン、ついでにケチャップをかけた冷凍食品のフレンチフライ、というわけだ。おれは両面をきっちり焼き上げられた卵にナイフを入れ、黄身が固焼きになっていることを確認してから、左手のフォークで口に運んだ。 「ここで中身がどろっとしてると、気分が上がんねえんだよ」  ブラッドリーは、そんなもんかね、といった表情で曖昧に頷きながら端の焦げたライ麦パンをちぎった。  一週間の休暇のうちの、真ん中の三日間をいっしょに過ごしたい、と彼は電話口で言った。一日で嫌になったら翌日に出て行くし、もっとお前の役に立てる日があるなら、その日に行く。どうして三日なんだ、と尋ねれば、また正直な答えが返ってきた。一人で過ごす休みが残り二日あれば、夢見心地から目を覚ますのにたぶん足りるだろう。  夢見心地。  口説かれてるんだろうな、と半分思い、口説いてるつもりになってるだけなんだろう、と半分で思った。おれたちの関係は、友情にしては少し、シーソーの傾きがいびつだ。こっちが上がり、向こうが上がる、一定の調子で繰り返しているように見えて、地面を一生懸命に蹴っているのは彼の方ばかりに思える。  シーソーから降りたいわけじゃない。シーソーを動かすにはどうしても二人必要だから、だったら他の誰でもなく、おれがそこに座っていたい。でないと彼は、席が空いてしまえばそこに人間ではなくて酒瓶を積み込んで、ガッタンガッタン地獄行きのリズムを刻み始めて、あっという間に地面に叩きつけられて終わってしまうのじゃないかと、おれはどこかでいつも気を揉んでいる。  人の命を救うのは気分がいい。あの日の気分の良さをこの頃じゃ自分自身の価値の支えにしている。ろくなことじゃない。だが今となってはこうも思う、おれが彼を救ってやれたのはあの一回きりであれと同じことは二度とできない、彼を救うなんておれにはもう二度とできないんだ、と。 「なあ、袖が」  やたらな広さのテーブルの向こう側から伸びてきた長い腕の長い指が、青いフランネルのシャツの袖口を軽く引っ張ってめくった。朝食のプレートを撫でてしまった袖口にはフレンチフライから掠め取ったケチャップがたっぷり乗っていた。 「お前のシャツ、腕の長さが合わねえんだよ」  おれの悪態に何か言い返そうとブラッドリーが口を開きかけた、そのとき、キッチンで耳慣れた着信音が鳴り始めた。おれは自分の携帯がスウェットパンツのポケットに入っていることを確かめると、彼の顔に向かって首を傾げた。  支給品のスマートフォンは誰も彼もが同じものを持っている。デフォルトで入っている着信音の種類はそう多くもないし、誰に電話がかかってきても身構えてしまう。仕事柄、急な呼び出しは少なくない。休暇中だろうと容赦なしだ。キッチンの天板で鳴り続けている電話を取りに行くブラッドリーの後ろ姿を見送りながら、あの電話はそういう呼び出しの類いだろうか、と考えた。彼はおそらく残念がるだろうけれど、おれは別にそれでもいい、と思った。  最初の晩は動画配信サービスのウォッチリストをいわゆる「カウチポテト」スタイルで三本潰した。自分の家のリビングで映画を見る趣味がおれにはないので、ブラッドリーが観たいと思って作った映画のリストを興味深く眺めた。マトリックス──見てないのか? ホアキン・フェニックスのジョーカー──これはおれも見ていない。ジョン・ウィック──犬が死ぬから嫌いだ。フレディVSジェイソン──これってビールにウィスキーを混ぜるようなアイディアだろ。アラビアのロレンス──三時間四十七分……。  結局、見たのは「メン・イン・ブラック2」と「ジョン・ウィック2」で、「ミッドサマー」の冒頭を見ているうちにおれは気分が悪くなって寝に行った。朝になって目が覚めるとバックウィートのパンケーキが淹れたてのコーヒーとともにお出迎え。ベッドから這い出るのに三十分かかっても、彼は揶揄するでもなく、朝食を寝室へ持って来ようかと言った。そういう生活から元に戻るためにクソ努力してんじゃねえか。唸って見せれば叱られた犬のように肩を落として謝った。  午前中はそんな調子で二回か三回小言を言い、昼食のサラダを突つきながらおれはつい弱音を吐いた。楽しくないだろ、せっかくの休みなのに気遣いしながら過ごすのは。彼はほとんどぽかんとして、一体何を言われたのか分からないといったような様子でかぶりを振り、そりゃあ少しは我慢してるかもしれないけど、とつぶやいた。舞い上がって変なことしそうになるから。今朝みたいに。  おれはキッチンで電話をとって話し始めたブラッドリーから視線を引き剥がし、彼の声に聞き耳を立ててしまわないように、とりあえず袖口の汚れたシャツを脱いだ。ケチャップの染みをしげしげと見つめ、洗濯機にこのまま放り込むという思いつきを横へ押しやった。借り物だ。貸してくれとは言っていなくても。  シャツをバスルームへ持って行き、洗面台で袖口を軽く洗った。ハンドソープを泡立てると油染みは薄くなったように見えた。両手で水気を絞り、今度こそ洗濯機へ放り込む。ついでに洗濯機も回してしまえばいい。スイッチを入れ、液体洗剤と柔軟剤を適当に流し込んで、蓋を閉める。  夢見心地で。  舞い上がっていて。  おれは洗面台の下に洗剤を戻して、そのまま洗面台に両手をつき、唇を噛んだ。誰が夢見心地だって? 頭を冷やすのに二日で足りる? お前は足りるかも知れない、でもおれは違う。  ダイニングへ戻るとブラッドリーはまだキッチンにいた。テーブルの朝食はほとんど手をつけられていないままだ。話は終わったらしい。彼はキッチンのシンクに向かって項垂れている。 「飯、冷えるぞ」  椅子の背もたれを引こうとしたとき、ブラッドリーがシンクに嘔吐するのが見えた。  どうしてこんな広い家を借りたんだ?  映画を見ながら彼はそう訊いた。いろいろ面倒な事情があって……さも面倒くさそうに言えばそれ以上は何も尋ねて来なかった。面倒な事情だ。面倒すぎて家を借りたところで話が頓挫したくらいに。  こんな広い家、だから借りなければよかった。ダイニングを横切ってキッチンへたどり着くまで、病人の歩幅で七歩も八歩もかかるような家、借りるんじゃなかった。      カーン郡の保安官事務所からの電話だったそうだ。 「片道、飛ばせば四時間くらいだと思う」  カーン郡の砂漠のほとりの小さな町で、彼はマーヴェリックと最後の日を過ごした。 「イザベラ湖で遺体が上がったって。年格好がよく似てるらしい」  最寄りのコンビニエンスストアへ出かけてくると言って、出て行ったきりマーヴェリックは戻らなかった。三年が経った。彼はまだ戻らない。  「行かないと。行って、確かめて、戻って来る」  高速五号線から州道九十九号線へ、北へひたすら走って、ベイカーズフィールドという小さな街にたどり着けばそこに郡の保安官事務所がある。早朝に湖から引き上げられたという男の遺体も、そこにある。 「戻って来てもいい?」  地図アプリで州道の混雑状況を凝視していたおれは、はっと顔を上げてブラッドリーを見た。  一緒に行く、という言葉が喉元まで出かかっていた。なんの役にも立たない、という思いが喉を締め上げた。往復八時間、助手席に座っているだけでも体調を崩すだろう。途中代わりにハンドルを握ってやれたとして、むしろ面倒を増やすかも知れない。  しがみつくような真似をしたいのは自分のためだ。おれは自分が──信じがたいことに──怯えて震え上がっていると感じる。三年前なら考えもしなかった理由で恐れ慄いている。  ブラッドリーはガラス玉のような目をそっと伏せてため息をついた。噛み合わせようとして合わない歯がカチカチと鳴る微かな音がその唇の隙間から聞こえた。 「戻って来なかったら、お前、絶対に許さないからな」  彼は目を伏せたまま組んで合わせた両手の中に長々と息を吐き、眉根をきつく寄せて頷いた。おれは冷え切った朝食のプレートをほとんど払いのけながら彼の肘下を掴んだ。血の気が感じられなかった。 「お前は三年待って挙句に許すんだろうが、おれは許さない」 「分かった」 「約束するときは人の目を見ろよ」  重いまばたきの向こうに赤く潤んだ瞳がこちらを見上げた。子供みたいな目だ、とおれは思う。光でいっぱいなのに語るものが少なくて、すべて見透かしながら何も見ていない目。 「戻るよ。約束する」  おれは頭のどこかで、三年待つかも知れない、と思う。三年でも五年でも、十年でも待って、その間にゆっくり人生は終わっていくだろう。彼が戻らないと知った瞬間から、きっと人生は終わり始める。      ブラッドリーを送り出すときはあまり背中を見つめないようにした。別れをあまりに惜しむと相手が戻らない、というような碌でもないジンクスが頭を掠めて、どうしても抗えなかった。あるいは、強迫観念ではなく自分の意思でそうしているのだと思い込もうと努力した。祈らなかったし、玄関のドアを閉めるときは蝶番の都合を無視して強く引いた。だがその程度だった。  ドアの鍵を二つともかけるとすぐ取って返し、出て行く車のエンジン音を聞かないで済むようにキッチンのディスポーザーを回した。吐瀉物の残りと冷たくなった朝食を一緒くたに処分していると今度は空の食器が目についた。思い切り洗剤を絞ったスポンジでプレートを二枚とカトラリーを二セット、マグを二つ、コーヒーを入れたポットも残りを全部捨てて洗った。  立ったままでいる時間が長くなると少しずつ疲労感が肺を圧迫し始める。普段なら一呼吸入れただろうが、無視して洗濯機へ向かった。少ない洗濯物はすっかり乾いていた。ひとまとめにして取り出し、幾らかはその場で適当に畳んで棚へ放り込み、残りはリビングへ持って行ってもう少し丁寧に畳んだ。借り物のフランネルのシャツの袖はすっかりきれいになっていた。折り畳むために肩幅を持って広げたとき、袖の長さだけでなく丈も横幅も自分とは違う、と思ってひどくむしゃくしゃした。ブラッドリーが寝起きするのに使わせている二階の寝室へ畳んだシャツを持って行き、ペーパーバックが一冊置かれたベッドサイドテーブルから本を取り上げてシャツを置き、その上に本を置き直した。本のタイトル──どん底の人々。なるほどね、とひとりごちる。なるほどね。  その辺りが詰まるところおれの限界だった。海軍式に整えられた掛布と枕の角が揃っているかを習慣的に確認し、どうしようもない、と笑ったあたりで目眩がした。ぴんと張られたシーツの上に座り込んで、耐え切れず右肩を下に身体を投げ出した。世界が身体の外側でぐるぐると回る。痙攣発作の記憶が吐き気を押し上げてくる。気にするな、とつぶやく。気にするな、問題ない。頭蓋骨の中の悪魔は切って取り出して棄ててやった。六週間の放射線治療も終わった。あとは医者の言う通りにするしかない。よく休み、よく食べ、よく水を飲み、体の変化に注意を怠らないこと。体の変化──たかだか朝食の後片付けをして洗濯物を畳み二階へ上がって来ただけでめまいを起こすほど疲れる。苛立つなと言う方が無理だ。  シーツを掻きむしりながら、口汚く二言三言罵った。毛羽だったシーツから知らない香水の匂いがした。百合の花に似ている。大きなカサブランカの花束から香るのと同じ、青みがかった植物の香りに麝香が入り混じったような匂い。こんな香水つけるのか、あいつ。  苛立ちがするりと抜け、代わりにふと、先週の認知機能検査の結果を思い出した。普通の成人男性としては問題がない範囲の数字。パイロットとしては致命的な数字。 「辞めるか」  口に出してしまうと、腹の中でこねくり回していた間よりずっとつまらない言葉に思えた。辞めたっていい。辞めたやつは周りにいくらかいる。辞めても死ぬわけじゃない。次の人生が待っている。おれの場合はうんざりするほど長いとは言えないかも知れないが、それでも人生はまだ残っている。死ぬまでの暇つぶし。崖に向かう一本の細い坂道。それもひどい大荷物を背負わされて。  辞めたあかつきには、ブラッドリーとおれは晴れてようやく「友達」になるのかも知れない。偉大な先達のうちの誰かが、戦友と友達は違うのだと言っていた。戦友は友達とは違う、友達にはなれない。職場の同僚は友達じゃないというわけだ。  それで、片方が職場を辞めたら?  おれは自分がブラッドリーと二人向かい合ってどうにかこうにか動かし続けている不恰好なシーソーについてまた考える。多少ましな調子になるだろうか。彼は酒瓶をガタガタ言わせるのをやめて、おれは自分の座った場所が板の真ん中から離れすぎてはいないか気にするのをやめる。そこまで考えて、彼がついさっきシーソーから立ち去ったことをようやく思い出す。  百合の花の匂いがする。おれはサイドテーブルに目をやり、さっきそこへ置いたばかりのシャツに手を伸ばした。『どん底の人々』が絨毯の上へ転がり落ちる。青いシャツもほとんどが絨毯に滑り落ちて、袖口だけが手元に残った。鼻先を押し当てるとまだ少しだけケチャップ臭くて、強すぎる柔軟剤の香りがその上にべったり乗っていた。 「マリリン・モンローかよ」  笑おうとして開いた唇からは掠れたうめき声が漏れた。  おれは何も知らない。ブラッドリーについて、彼がマーヴェリックを今にも失おうとしているということ以外、まだ何も知らない。      彼に貸しているベッドで午前中を泥のように眠って過ごした。目が覚めたのは昼をずいぶんすぎた頃だった。重い体を叱咤して日課の散歩に出かけたが、いつもの距離の半ばのところで折り返し──これは正しい判断だったと思う──昼食を買って戻った。淡白なグリルチキンと生野菜を香りづけされたライスの上に乗せただけの軽い食事に半分も手をつけられず、捨ててしまうか迷って、とりあえず冷蔵庫へ放り込んだ。これなら朝食の残りを冷蔵庫へしまっておくべきだった。ブラッドリーの作った飯だと思えばもう少し腹にも入っただろうに。  それから長い午後をリビングのカウチから始めた。慣れないリモコンでどうにか動画配信サービスの画面をテレビに映すことに成功し、ウォッチリストがどこにあるか見つけるためにさらに少し時間をかけて、一番上にあった映画を再生した。  知らない映画だった。古き良き時代のピストンエンジンの音が聞こえ、雲の中を二つの違う機銃の音が交差する。サムネイルでは戦争映画には見えなかったが──それにしても、いつまで経っても肝心の戦闘機は姿を現さない。カメラだけが雲間を縫って飛んでいるようだ。ああ違う。この視点はパイロットのものだ。悪天候の中の一騎討ち。いつしか激しい嵐がエンジン音を掻き消していく。  おれはいつの間にか家の外で実際にひどい雨が降り始めたという感覚に襲われ、それを信じた。夕闇のように暗くなった窓の向こうで轟々と嵐が荒れ狂っている。風防のガラスを叩く水滴で前が見えない。それどころか、計器盤までが結露で曇り、上も下も分からなくなろうとしている。  おれは必死で風防の外に僚機を探している。連れ帰らなければいけない。あの鈍臭い雄鶏め──この雲の中で長機の翼を見失ったらおしまいだ。だというのにどこをどう見回しても彼の姿が見えない。無線に向かって彼の名を叫ぼうとする。ところが今度は呼ぶべき名前をどうしても思い出せない。  喉に真綿を詰め込まれたような息苦しさの中に、唐突に視界が開ける。眼下に広がる真っ青な海。その水面に向かってきらきらと光る板のようなものが回転しながら落ちていく。吹き飛んだ尾翼の破片。  あれがないとだめなんだ。あれがないと飛んでいられない。なのに、水平線まで晴れ渡った青空のどこにも落下傘は見えない。 「ジェイク。ジェイク、いま戻った」  寒気がするほどの冷や汗の中に目を覚ました。カウチの傍にブラッドリーがしゃがみ込んでいた。 「何時だ?」  ほとんど声になっていなかったが、彼は律儀に腕時計を見やって答えた。 「八時五分。二十時五分だ。遅くなって悪かった」  おれは頷き、汗の雫が浮いた額を手のひらの付け根で押さえて、何度か深く息を吐いた。 「雨は?」 「雨?」 「いや……違う、なんでもない」  熱っぽいのか冷たすぎるのか分からないこめかみに乾いた指が置かれるのを感じた。こめかみを丸く撫で、耳と頬の境目をたどって、また戻る。好きなようにさせた。疲労感のままにまぶたを伏せてしまうと、指先は眉をなぞって目尻のあたりを優しく摩った。ひどく心地良かった。  狂ったような早鐘を打っていた心臓が平静を取り戻すまでの短くはない時間、彼は大きな手のひらでおれの耳の上から頭を半分ほどすっかり包むようにして、何とも例えようのない優しさでそこを幾度も撫でた。彼がそうしたいのならそうすればいいと思った。彼には必要なことなのだろうとも。犬にブラシをかけてやるとき、必ずしも犬の方がそれを必要としているわけではないということと、たぶん似ている。母方の祖父さんが死んだとき、おれは飼っていたスパニエルを一人で散歩に連れ出し、家族の誰の前でもなく犬の前で泣いた。そんなことを思い出した。 「彼じゃなかった」  ブラッドリーはおれのこめかみを摩る手を止めないまま、ぽつりと言った。 「彼じゃなかったよ」  そうか、とだけおれはつぶやいた。 「でも……殺された人だった。亡くなってから時間が経ってて、縄や鎖が食い込んでいるのを無理に外すと遺体を傷つけてしまうから、そういうものがまだ、そのままにされてて、気の毒だった」  おれは彼を見た。彼は曖昧な笑顔でおれの視線に耐えた。そしてふと自分が何をしていたのかようやく気付いたかのように、気恥ずかしそうな仕草で手を引っ込めようとした。  肘下を絡めるようにしてその手を引き留めた。大きな手の長い指に外側から指を絡めて、引き寄せて、折り曲げられた指の関節と爪の上に唇を押し当てた。テーブルにこぼしたまま乾き始めているビールの匂いがした。 「飲んだのか」 「車止めたあとに、運転席で少し」 「つまり、おれの家の敷地の中でか」  ブラッドリーは低く呻いて、ごめん、と絞り出した。 「酔ってるってことか」 「ごめん」 「おれに謝ることじゃねえだろ」  彼は完全に狼狽えた様子で、おれに掴まれたままの手を握り締めようとした。そんなことをすると互いにすっかり手を繋ぎ合ってしまうことにちっとも気付いてないみたいだった。 「謝る。酔って舞い上がって、いま少し……どうかしてる」 「舞い上がってなんかないだろ」  ブラッドリーはまたあの子供のような目でおれを見た。四十にもう少しで手が届く男が戦友を見る目ではないと思った。 「どん底だよ。どん底にいると思ったから、飲んだんだろ」  見知らぬ男が無惨に殺されて湖に沈められた姿を見て、マーヴェリックがどんなふうに死んだか考えたんだろう。毎週末、スコップを担いで夜な夜な道路の側溝をどぶ浚いしていた頃みたいに。誰より執着して誰より憎んで誰より愛したに違いない男が、悪臭を放つ泥と汚水の中にどんな姿で沈んでいるのか、ありとあらゆる想像をしながら、四時間車を運転してここまで帰って来たんだろう。 「おれに謝ることじゃねえよ」  噛んで含めるように言うと、彼の手から少しだけ力が抜けた。 「お前が帰って来たんだから、おれはいい」  きゅ、という音がして、出し抜けに彼がしゃくり上げた。咄嗟に深く俯いた顔の先に、ぼたぼたと涙が落ちるのが見えた。おれはこれ以上ないくらい力を振り絞って彼の手を、腕を引いて、上背のある体を自分の上へ手繰り寄せた。曖昧さをかなぐり捨てて、彼はおれを力いっぱいに掻き抱いた。  あの日と似ている。砂の国から戻って来た彼がこの家を初めて訪ねて来た日。あの日と同じように、おれは彼が生きていて良かったと思っている。マーヴェリックはまた彼を連れて行かなかった。空の彼方か泥の下へかは分からないが、いずれにせよ、今はまだ。    二階の寝室のベッドで、抱き合って眠った。そうしてただ抱き合って眠ることがどういう意味を持つのか、分かっている気もしたし、何も分かっていない気もした。  几帳面なブラッドリーは、真っ赤に泣き腫らした目で鼻をぐすぐす言わせながらもきちんと寝衣に着替えておれにもそうさせ、二つ並べた枕にピローミストまで吹きかけた。百合の花の香り。ああそういうことか、とつぶやいておれは少し笑い、怪訝そうな顔をするブラッドリーの鼻先にキスをして黙らせた。 「お前はずるい」  彼はそうぼやき、おれはその通りだと思う。マーヴェリックは戻らないのに、彼は戻って来た。彼がいくら祈っても泣いても彼の待ち人は戻らないのに、その祈りと苦痛が彼の中にあるせいで、おれは彼の鼻先にキスすることができる。夢見心地で。舞い上がっていて。明日正気に戻らなければいけないくらいなら、今夜世界が終わってしまえばいいとさえ思う。  彼は柔らかな毛布の中で遠慮がちに腕枕を寄越し、額に鼻筋を押し付けるような距離でまたひとつ涙を流す。だからおれにはその涙の粒が鼻梁を伝い、鼻先から寝衣の肩口へ落ちて染み込むのがよく見える。  涙の染みが乾いて見えなくなるまで、起きて彼の眠りを守りたいと願っている。そして夜が終わるのを一人で待ちたい。夜の終わりに、芳しい雨の香りを嗅ぎながら、東の風の中へ紙飛行機をそっと投げるように彼を送り出す夢を見ていたい。どうかこの風が彼をまだ見ぬ西の果てへ飛ばし続けてくれるように。

ご覧くださりありがとうございました!

皆様にとって、今日が素晴らしい一日になりますように。

2022.10.1. ゆり塩

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